知識を注入(近代史編)
あとから勉強する事が多い。
学生時代にサボってきたツケがいま回ってきたようだ。
無知な中高年の出来上がりだ。
知らないことよりも、知らなかったことの方が多すぎるし、知識などは砂粒のように無数にある。
もちろん、身の回りには知識をクールにかつ、それが全てだと言いたがる人間は多い。
時代が違う。
謙遜が美徳とされた時代は「慎ましくてよろしい」ときたけど、いまはこんなことも知らないの?と人をランク付けするようなやり方が溢れている。
改めて、教養とはなんだろう?と思う。
そして、あなたは仕事ができますか?と言われれば「いやいや、私なんぞは…」というのがかつてはあった。
だけど、若い子を見ると私は仕事ができる方で~というのがあり、唖然とする。
だけど、そうしないと危険だという本能なのかもしれない。
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現代史についての解釈本が書店に溢れている。
戦争は無かったとか、虐殺した事実はないとか・・・そうでなくても、解釈をねじった物言いをしている表題が目につく。
歴史戦ではないが、現代を生きるための・・・ゲームのように教養が使われていると感じる。
でも、虐殺の事実がなかったらどうだろう?
相手に借りを作れるし、ゲームを有利に進められるのは言うまでもない。
これらは被害者を無いものとする残酷さを持つ。
あれば、不都合だからだ。
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戦争孤児のドキュメントを観た。
悲惨だと感じた。
戦争が人を変えるのを思い知った時だった。
たとえ、インタビューしても「思い出したくない」と断られるのが多いそうだ。
当たり前だ。
係員があたかも掃除するかのように、(浮浪)孤児を狩りにいき、檻に入れるのだ。
親戚を頼ってもろくでもない仕打ちを受けるのが多いみたいだ。
余裕が無くなると人は支え合いや助け合いすらも無くなるのだ。
これら、証言者や昔の画像が残っているというのは希少である。
何故かいまは世の中イケイケな雰囲気が多い。
疫病であっても自粛解除を待つ溢れんばかりの爆発感を感じる。
間違いなく75年前の事などは辛気臭いのだろう。
過去を忘れてこれからを生きたいというの間違いではないが、歴史の線上に生きていない。
歴史がペーパーテストでしかない弊害だろう。
だから何?馬鹿な事しなければいいんでしょ?みたいに頭のいい人は考えているのかもしれない。
私は頭が良くないから、そこまで考えられず「何でこんなことあったんやろ?」といつまでもモゴモゴしている始末なんだけど。