世の中に出るということ
いまは「新型うつ」を聞かない。
あるいは、現れないようにしているのかもしれないが。
校内暴力が流行った時代から経ると、スクールカーストというのがいまはよく聞くようになった。
ふむ。教員のなかにはスクールカーストを上手く使い学校経営に活用しているのがいるという。
身分については、Dr.名越のように問題ない、あった方が良い、というのも居るし、スクールカーストが当たり前として学園生活が描かれる小説もある。
さも、当たり前のように。
人権派の人間は逆にうるさい。
スクールカーストは悪として、メンバー固定がないように、攪拌すべしという専門家もいる。
しかも、なかには学校がダメでも世の中に出たら上手くいくだろうという、淡い期待を抱かせる人間もいる。
「世の中は学校と地続き」
たぶん、パワーバランスを攪拌しなければ、Dr.名越のいうように、自然とカーストができる気がする。
パシリはパシリなりに生きるのだし、支配人は支配人なりに上手くパシリを使う生き方をする。
学校をふざけていた私などは世の中に出て、世の中も学校の延長のようだと感じる。
どこの世界にも人間文化があり、気づかないうちにパワーバランスができて、安定してゆく。
役割…というか、それから外れるというのは、全体から見れば、安定を外したり、損なったりするのだから、倫理面や人道上、好ましくなくても、システム(組織運営)を続けてしまうのは、分からなくはない。
ゆえに、人事などが上層部などとねんごろになる。
仕組み・・・というか、学校もシステムであり、その延長に会社や団体があるなら、それに慣れやすい人間、器用な人ほど、上手く行きやすい。
だから、私はうえに書いたようなこと(学校がダメでも世の中に出たら上手くいくだろう)には疑問があるのだ。
上手くいってる人間というのは状況やシステム(骨格のようなもの)、対人などコツを掴んでいる感じがある。
それが、たとえ過去に(もしくは今も)ハンディや逆境があったとしても、その組織で上手くいっているなら、問題は無いのだ。
要はツボを抑えられればいいのであり、人道、倫理云々言わずとも・・・それこそ、善人だろうが悪人だろうが上手くいくのである。
カーストとさっき言った。
だけど、そんなものは組織にいくらでもある。年齢上下に関係なくパワーバランスは発生するものだし、解体するのは役割が不安定になるゆえ、組織は嫌う。
風俗に知恵遅れが多いと聞いた。
それは分からなくない。
養護学校のプログラム・・・あるいは、世の中に出る枠に定数があるのだろう。
強い弱者もいるというし、どこまで厚かまし・・・踏ん張れるかが、定数枠に入れるかが決まってくる。
先の記事に「まともな人からダメになっていく」と書いたがその通りになる。
表の世界・・・あるいは、昼の世の中は健全な振る舞いのできる人間が歩く。
ハンディを持つ人もいまは小綺麗だ。
歩き方も杖を上手く使いフツーに振る舞っていて、パッと見、なかなか分からない。
フツーに合わせられるというのも強者の条件らしい。
考えてみたら、フツーというのも残酷なもので、忌々しいもの、見た目が良くないものは受け入れない世界観でもある。
養護教諭の教え子が、いま風俗で働いているなんて声高にして言えるだろうか?
本人が心底良しとしているかも分からんから、よく分からない。
ただ、女性作家曰く、ハンディなしの人でも次第に心身・・・魂のようなものが疲れ、痩せていくみたいなことを書いていたから、やはり哀れなものなのだろうか。
無理をして相手にし合わせないといけないのは、昼の仕事もそうだけど、自分の「身」をモロに使うのだから、内に染みいるような重労働なんだろう。