「心を病んだらいけないの?」を読了
與那覇さん、躁鬱をやったんだ(´ ゚ω゚`)
いまの時代が分かってくる1冊でKYには持ってこいな本だ。
陰キャで不器用、理解の遅い私には画期的な経典になりそうだ。
機能主義の説明は…なるほど、実際腑に落ちるとこもあるし、雰囲気や文化を上手く言い当てた言葉だと思う。
要は、システムなり人なりから要請されたことをスムーズにやることが求められている。
それができなければ、村八分にされたり、アスペとか、KYなどとされ二級(あるいは三級)市民扱いを受ける。
スクールカーストを説いた学者が居たが、どちらかというと、世の中に出た方がもっとキツいと私は感じる。
「まずは仕事ができること」が求められる。
言われたことをパッパとでき、話が上手ければ上座に居座ることができる。
人を制することができる…言ったもん勝ちみたいな。
高機能=上位。
以前、使った図だが階層は社会学者や文学者が説明した方がよろしい。
言葉や雰囲気だから。
支援施設などは機能しているのだろうか?
やはり、フツーにやっていけることを世の中から求められるとしたら、支援者も大変だろう。
道ゆくハンディある人がキレイなように。
なお、本書ではまだまだ重要なことが書いてあったが、なかでも「人間の尊厳が守られる云々…」があった。
(´・ω・`)「それ、永久にムリなんでないの?」
と、私は思う。
だって、機能主義が昔(ムラ意識)から求められてきて、いまもそれにしがみついた世の中だから。
酷い言葉だけど「仕事できないヤツの持ち物なんて捨てちまえ!」なんてのが、いまの60代にも言われる。
民主主義というか、個人主義みたいなのは結局、餅屋は餅屋ではないか?
皆ができることをスタンダードとして求められる…それ以外は許されないのはある意味、酷な話だ。
あと、教育はいま死んでると思う。
教育はなにか?
できないヤツのものだ。
できるヤツは世の中に出ていってよろしい。
表現が悪いが、学者バカや学校に残る人間に偏った人間がいたと昔から言われる。
悩んだり、理解が遅かったり、世の中に出られる人間が普通にこなすことに説明を付けたりしないといけない人間がいるのだ。
当たり前や、常識を疑う作業にも繋がるようだ。
中井久夫などは、世に出るのが難しい人をプールさせておけ、といったが私は激しく同意する。
あるいは、世の中に出てめちゃくちゃになる人間は学者や芸術家にでもさせておけ、とK老師は言っていた。
いま教育は神経症の極みである。
できるヤツを更に手を掛けていくようなものだ。
点数いくら上がっただの、どういう成果があるだの、短期スパンでものを見ている。セコさがある。
大化けするヤツを視野に入れていない。
できるヤツは勝手にできるし、やっていけるのだ。ちゃんとした進路も見つけられる。
できないやつに「生き方」としての教育機関はありだと私は思う。
機能しない人間を学問なり、芸道なりさせればよい。
要は「在り方」なのだ。
それを、個人が勝手にやってるな!と思えてくれば、システム部品みたいなできる・できないヤツを言うことはなかろう。