振り返って
「お前書いていることゴミ以下じゃん」
…から、振り返る。
初心を思い出す。
記事を見せたらそう言うのだから、見た人が悪いのか?書いている人が悪いのか?
まぁ、私も良いことは書こうと思っていない。「あれはこうかな?」と思って書いたまでで、結果がゴミなわけだ。
せめて、肥やしくらいになれば、畑に使えるんだろうけど。
できることがスタンダードな時代と感じる。
巷にはSNSはおろか動画を使い「売れる絵」がアチコチから飛び出している。
老若男女失敗を許さない状況というのは過酷である。
子供の教育でも、いかに正答を導くか?が昔から言われ、砂場で転ぶのを良しとしない。
駅舎ですらゴミ箱がない。
放火されるから、危険だから、経費削減だから、と一見良さげな声を聞くが、した結果が不便となり、それが当たり前になった。
ポイ捨ては罰金というルールや見張りも出来たら恐怖政治である。
創造性…こうした方が利便がよいと言われれば「決まり事だから」と一蹴されては、物事の広がりもないし、心身もギスギスした感じになる。
危険や不安を煽るのも誘導である。
それによって人をも縛るし自分も縛る、まさに呪いだ。
最近は知能(?)や器用不器用に関係なく、ルールに従っている(ふり)をした方が有利と分かった連中が多く感じる。
生存戦略のようだ。
正しいことを過剰に言う人はどこか病的な匂いがすると、誰か言ったが考えてみたら、丑の刻参りをする人間の強迫観念とそっくりだ。
言動がおかしい。
まぁ、要はルールを前に出せば人権すらも縛れると、分かるんだろう。
自分がされたらやな事は先にしてしまえ!ではないが、ルールが物事の保護や保養ではなく、武器になっていくシーンである。
相模原の事件ではないが、法曹は犯人を捌きたいが、医療はセラピーを目指したいという、相反する話を聞いた。
なぜ、捌くか?それが仕事だから。
なぜ、癒すか?それも仕事だから。
それはそうなんだけど。
本当は法曹と医療の両輪が回っていないといけないのだが、死刑があるのはどこかで「禊」の文化が強いのかも?と思ってしまう。
水に流したり、清めたり、穢れを落として今までをチャラにするのは、何も本人だけでなく、グジグジさせることにより、周りも影響を受けるから、リセットしましょう、という仕組みではあるまいか?
「あの人はあの人」とできないのが、そうさせているのか?
田代先生にしても、専門家は回復成績は向上しているという。
だけど、みなまだドラッグやってるという。
みな完璧が好きだ。
心身に染み付いたこれまでの習慣は、同じ組成の人であっても、普通を目指すのは難しいし、しかも先生は高齢だ。
だから、普通とは何?並とは何?という話になる。
ゆえに、なだいなだになる。
正常よりは成長を目指しなさい、と。
たぶん、ADDICTIONの次世代が松本氏なのだろう。
ADDICTION治療方針が、本人を如何に成長させ周りを思いやれるか?から、個人の生存戦略に話が変わってきていると感じる。
周りを気を使えるか?が目標より、本人がギリギリやってきて「さて、(本人のためになる)関係性を上手く築きましょう」な話になる。
関係性において、本人が周りに良い働きかけができるか?から、本人にとってバランスの良い関係を築けるか?にセラピーが変わっている。
時代の流れなのだろう。