Apollonneo’s blog

読書感想文、自然体験談多し

黙っていた方がいい

狭量なんだよな。

 

トラック野郎(女郎?)がバッシング受けたとか、看護師の子供が入園できないという。

患者自宅に嫌がらせとかもある。

たぶん、だれも声を上げなかったら、果てが刃牙の家みたいなものだろう。スプレーでありったけの罵詈雑言を描きまくり、電柱裏から飛び出しケンカを吹っかけてくる。

 

「〇〇して何が悪い!?」となる。

被害者を追い込む。

オウムの頃も被害が長引いたとき「まだ、やっているのか?」という話が出た。

重要なことも風化していく方が当たり前な感じがする。

 

こんな場合、〇〇したらどうか?くらいあっても良いはずだが、海外ではそのプランの多いのを聞く。

AがだめならB。

Bが良くてもbなら良い。

bからc,d,e…と続いていく。

 

被害者に石を投げる前にプランでも言う方が罪滅ぼし(死語)になりそうだが、持続させるエネルギーもなければ、それに代わる仕組みが遠い。

ゆえに、すぐ石を投げることになる。

 

この国は細かい。

枠組みだけ決めて、あとは任せれば良いのを重箱の隅をつつくようなことがある。

細かな説明が親切と言われる。結果が良ければ過程は個性である。そこに重大な支障をきたさなければよろしい。

 

教育でも正解をより多く同じ内容で導くか?をしていたら、創造力はつかない。

判で押したようなことをいう子が(たむろして)居るのもそれかもしれない。

教育とは内容だけでなく習慣でもある。

 

まえに、世の中は後退戦云々を書いた。

もし、後退戦をやるにしても負けかたは上手く負けないといけない。

ああ、この負けていく風景はこうなのですね、と受け入れながら引かないといけない。

状況や関わる人をバカにするわけでもなく。

 

一方、イキる人間もいる。

疫病がなんだと、凄む。

病は人を選ばない。凄んだヤツが倒れたら「みっともないからよしなさい」となるのだが、取り巻きも含めて可能性を忘れている。

自分だけはいつまでも健康体だと思っている。可能性が頭にあれば人間、迂闊なことは言えなくなる。

 

そういえば、先の尖った革靴や筋トレが流行った。話し方も「出来る人」を仕草・振る舞いでアピールしていた。

知的にスマートに、とてもポジティブで、それ以外をなきものとしていた。

 

私は先尖りの靴を「剣」だといった。筋肉も鎧だと。

相手から…強そう、相手にできない、喧嘩できない、などと宣伝していたが、某筋トレ尊師はもとは虚弱だったという。

逆境を持つ人が成功して、良く分からないことをいいうのは、人間は普遍的に良いことも間違うこともするからだろう。

 

「これが全てです」なんて言う人がいたら注意が必要だ。