美談②
「美談」に引き続き。
残念ながら私自身もいま働かなければいけない身だ。
医療関係者のそれと比べれば、屁にもならないかもしれないが、喰っていかないとお金は生まれない。
某女史は労働の生きがいがある人たちは、じっとしていられないだろうけど、じっとしている方が身のためにもなるし、周りのためにもなる…という。
ただ、「労働」に生きがいを感じている人へのメッセージは残念に思う。
人は有用感があれば、世の中に出ていける。
だから、いまを休んでいなさい。出ていかないことも疫病というものを撒き散らさない「有用性」なのだから、と。
私には分からない。
世の中に有用感を持つ人は確かに上手くやっていけるし、生きがいも感じるだろう。
しかし、中には…ひょっとしたら多くかもしれないが、生きがい以前に自分だけで精一杯な者もいる。
そんな場合、ウソを言っても仕事に行かなければならない。
不健康を健康に装って働かないといけない。
私の読みが間違っているのかもしれない。
人は余裕が無くなれば短期的な見方になるし、文化的な生活から遠くなる。
自分より豊かさを楽しむ人が異界の人のようにも見えるし、それが自分と同じ人間だと分かったときは落胆する。
逆に有用感を持つ人がある種の無神経さに陥るのか?有用感を持とうと頑張る人も。
卑近な話、優秀な人物が冷酷で、非現実的な課題を振ってくることを見たこともあるし、彼にはできて私には全くできない、というのも感じたことがある。
「自分と人は同じではない」というのがない。
そんなときに「合わせる」という力学が働いて同調圧力が発生するのだろう。
すると、みな「合わせる」に神経質になり、課題達成というルールに必死となり、違うものは弾き飛ばす冷酷な場が生まれる。
そうなると底なし沼みたいになる。