見た目のこだわり
面白いことを書いている人がいる↓
「見た目にこだわる文化はしんどい|野本響子@文筆家&編集者・在マレーシア|note」
見た目にこだわる文化はしんどい|野本響子@文筆家&編集者・在マレーシア|note
一番、響いたのは外国教師が「見た目であれこれいうのはよしなさい」という部分だ。
かといって、こういうのは昔のポンニチでも、躾としてあった。
指さして、身体の悪い人をいうのは気の毒だから止めなさいとか、人には事情があるのだから悪くいうのはよしなさい、みたいなのはあった。
⚠以下、愚痴めいたことを書きます。人によっては不快な内容になりますので、苦手な方は見ないでください。
いま、なぜそれがないか?
抑止力がないからだ。
相手への想像力を働かさない・・・以前にやっていいこと、悪いことを教えなくなった。
常識は倫理みたいなものだと最近思う。
それを養わないのはなぜか?
得にならないからだ。
言う前に言うみたいな風潮が強い。
何となくセコさを感じる。
「譲り合い」とは建前で、引いた分だけ人は入ってくる。
なら譲り合いなどしなければいい、みたいになる。
「優しさ」が上下関係に還元されてしまう世の中だと感じる。
「頭を垂れる稲穂かな」は実の詰まった稲穂は中身があるが、ツンとした稲穂は中身がスカスカだ、といい人間性や内容が伴わないという意味だが、それもいまは通用しない。
世の中は受け入れない。常識…というか、どういうものに価値を置くか?というのにも流行りがある。
いまは、どうやら中身が詰まったモノは不要らしい。
・・・つらつらと連想じみたことを書いたが私は悪魔👿
人のことを指さして悪くいうのはなぜか?
それが悪いことと思わないからだろう。
私は最近、何度か後ろから、アレコレ言われたことがある。
リュックから飛び出た野草を指さされて「草だ!」「ケラケラ」などとからかわれ…かつ、笑いの種にされた事もある。
他方、重い荷物を「よいしょ」とやった時、それを見ていた親子…子供が「あの人力持ちだね!」といえば、親は「筋肉だけでしょ!」と言ってのけた。
さらには、走っているのを見られれば…とあるグループから「アレで走ってんの?」と、疑い、かつ腐すようなことを言われた。
笑い草…人を腐すというのが、他人に対して平気で行われているのが、今日だ。
他人に対してとことん、冷たいし、攻撃的でもある。
法で言えば侮辱罪・名誉毀損になるのだろうけど、そこまで考えていない。大したことと思っていない。
以前、池袋で人が後ろからからかわれて、ナイフで刺した事件があった。
SNSでは刺した方が我慢なさすぎ~、なんでナイフ持ってんだ?なんてコメントがあったけど、逆に言えば刺されるくらいのことをしているし、からかいを許しているのだ。
もちろん、刺すのはよくない。
ただ、人を窘(たしな)めることを知らない。窘めたら仲間と気まずくなるからだ。
倫理より仲間をとる。
この「からかい」というのもミソで、もし仲間うちでも「からかい」が当たり前なら、虐待関係が当たり前なのだろう。
これでは人に対して人権・人格尊重も育つわけが無い。
その場の正しさ(みたいなもの)が絶対となり、それ以外は良くないことになる。
これを政(まつりごと)がいけないという人もいるが人間、1人1人の問題でもあろう。
しかし、考えてみれば虐待やいじめ問題にせよ、関わるからいけないという話になる。
気にするからやられるのだ、と。
気にするから悪いとなる。わけがわからないが、そういうことになる。
人のことを無遠慮に…分別なしにとやかく言いうのが、問題にならないのだ。
常識を疑うことがない。